本の抜粋の続き7 今回で終了

『女人禁制』吉川弘文館 歴史文化ライブラリー 2002年 鈴木正崇
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○以下の抜粋に続く箇所、固定化された穢れ観念をときほぐし、新しく提唱している部分は 抜粋を省きます。
関心のある方は 手にとってご確認ください。

※おことわり_本文中のルビに重複等あります

穢れ再考
 穢れの理論
  穢れのとらえ方
   なぜ、血は穢れとされるのか。それを女人禁制に結びつけてきた現象が問われなければならない。類似の概念は世界各地から報告され、宗教施設や聖地の女人禁制も日本以外に存在する。たとえば、南インド・ケーララ州のサバリマライ(Sabarimalai)は女人禁制の聖地であり、多くのヒンドウー寺院は生理中や出産直後の女性を忌避する。穢れという現象は多様で、男女ともに避けえない死、女性にかかわる出産、女性の月ごとの生理である月経、血そのもの、死体や肉体の一部分、排泄物である糞尿・鼻汁・目やになどに関わる。しかし、穢れとして言及される現象は多様な文脈の中にあり、穢れそれ自体を定義することは極めて難しいし、誤解を招きかねない。明治政府は、明治五年(一八七二)の太政官布告五六号で「自今産褥不及憚(はばかりおよばず)候」とし、明治六年の布告六一号でも「自今混穢ノ制被廃候(はいされそうろう)事」として、制度的に産褥など触穢に関するものを廃止した。しかし、上からの規定解除は効果がなかった。穢れの意識は日常の慣行や慣習の中に溶け込んでいるからである。穢れの定義もすべてに共通する本質を求めるよりも関係性でとらえるべきであろう。本質から関係へという視点の転換である。
   穢れを理解するための有力な学説としてしばしば援用されるのはメアリ・ダグラスの見解である(ダグラス、一九八五)。しかし、その定義は、小谷汪之が示したように、「あらゆる穢れには共通の『本質』があるということを先験的に仮定するところに成り立っている」(小谷、一九九九、三三ページ)。議論の核になる部分は以下のよになる。「汚穢(dirt)の本質は無秩序(disorder)である。…もし、我々が汚穢を避けるとすれば、臆病な不安のためでも、恐怖や聖なるものへの畏怖でもない」「汚穢は秩序を侵すものである。したがって、汚穢の排除は消極的行動ではなく、環境を組織しようとする積極的努力である」(ダグラス、一五〜一六ページ)。「周知のように、汚穢とは場違い(matter out of place)なもののことである。…それは二つの条件を含意する。すなわち、一定の秩序ある諸関係と、その秩序の侵犯である。従って、汚穢とは絶対的で唯一かつ孤立した事象ではない。つまり、汚穢があるところには必ず体系(system)が存在する。…汚穢とは事物の体系的秩序付けと分類の副産物である」(同、七九ページ)。
   ここで汚穢として訳した dirt は、他の所では uncleanness や pollution と同義の概念として使用され、類似した説明が加えられている。とりあえず、錯綜する概念のうち、pollution を日本語の「穢れ」に対応させて使用する。ダグラスの見解は、穢れという事象を、秩序(order)や清浄(purity)に対比するが、用語法の揺れに表れているようにかなり曖昧である。一方、穢れの本質は、分類という思考で判断する場合、分類にあてはまらない「変則性」(anomaly)や「無秩序」(disorder)であるという。穢れは体系を脅かすもので、分類を混乱させ、時には分類からはずれた剰余とも見なされる。「分類が曖昧なもの」「中間的なもの」とも言い換えられる。「穢れ」を発生させる根源的な場は「開口部」(orifices)で、特に人間の身体の開口部という周縁(margins)は「境界性」を帯び、危険性とともに強い力が発生し、そこに起きる現象は「穢れ」と見なされて禁忌に取り巻かれる。
   こうした発想の前提には、秩序の側から穢れを把握するという方向性がある。清めや清浄という明確な側から穢れを把握するのである。注目点は「境界性」にあり、そこには嫌悪と畏怖の両義性が発生する。特に身体から外に出るもの、たとえば唾・精液・血・乳・尿・便・涙・膿(うみ)・胞衣(えな)・後産(あとざん)、あるいは体の一部が分離したもの、皮膚、爪、髪、汗、歯、などが穢れの性格を持つ。これを身体だけでなく、親族、社会組織、空間に押し広げると、社会的に劣性を帯びた女性、周縁に位置づけられる非差別民、境界性を帯びた空間としての坂・河原・峠・村境、国民国家の中の少数民族などが、穢れを帯びたものとして登場してくることになる。人間から空間へと広がる連続性は、身体感覚に浸透する穢れの特性によって固定化される。支配的なイデオロギーがいつのまにか人々の日常生活に浸透し、見えざる権力を隠蔽して思考を釘付けにするのである。(P.209-212)

以上で終了します。
書評は残念ながら力不足で書けませんが、本当に面白い内容だった。
これから子どもたちと河原に石拾いに出かける予定ですが、
河原ー子どもー女 という取り合わせだけで、世界が広がってしまった。
さてさて 石を何に見立ててくれることだろう。
「鉱物 岩石 化石」の本も合わせて閲覧するのでご心配なく。

地獄と女性の結びつきは、民間での地蔵信仰も強化した。幼くして亡くなった子供が賽(さい)の河原で鬼の責め苦をうけ、これを地蔵が救う。救済者の地蔵にすがるのは圧倒的に女性である。産死や幼児死の多かった時代、母と子の絆を支えるのは地蔵であり、地蔵こそは境界に立つ、姥神(うばがみ)の男性版なのである。(P.178)
しかし、山の神は産神(うぶがみ)で、出産を助けるために穢れをいとわずやってくる。姥神と同じであり、山と里の境界に祀られ、三途川(さんずのかわ)にいる葬頭河婆(しょうづかのばあ)や奪衣婆(だつえば)として人々をあの世に導き、負性を帯びると山姥(やまんば)にもなり、男女仲良くする道祖神(どうそじん)ともなる。(P.218