本の抜粋の続き6

『女人禁制』吉川弘文館 歴史文化ライブラリー 2002年 鈴木正崇

※おことわり_本文中のルビ・漢字に変更・重複等あります

穢れ再考
 穢れの変遷
  『延喜式』以後
   延長五年(九二七)成立の『延喜式(えんぎしき)』は、前代の規定を踏襲して神社や内裏(だいり)へ及ぼす穢れを規定した。祭祀の執行時の禁忌として穢れとそれに準ずるものの忌みの日数を定め、穢れの伝染、つまり触穢(しょくえ)について規定した。ここでは穢れの肥大化の様相がみられ、穢れに関して甲乙丙丁という発生と伝播(でんば)の差異の基準を導入し、国家が穢れを管理する意図が明確化した。陰陽師(おんみょうじ)が関与する追儺(ついな)では「穢悪疫鬼(けがれあしきえやみのおに)」を「東方陸奥(むつ)、西方遠値嘉(おちか)、南方土佐、北方佐渡」という国家の四至(しいし)の外へ追放すると定めている。ただし、穢れは神事の内容に応じて、一定の物忌みの時間を経過すれば潔斎で解消された。たとえば、宮廷の女性の扱いは、妊娠中や月経中には祭の前日までに内裏から里下がりさせて昇殿を認めないとあるが、これは人間の死は三〇日、出産は七日、六畜死は五日、六畜産は三日、宍食(しししょく)は三日という物忌みと一連のもので、全て忌みという広い概念に含みこまれる。穢れの消滅日数は細かく明示されるが、一時的規制で、女性を穢れとして恒常的ないしは永続的に排除するのではない。穢れは祓(はら)いで消滅するのであって、近世のように血を流すことが神を穢し罪を犯すなどの永続的穢れではなかった。しかし、触穢思想は『延喜式』以降に明確化し、貴族社会で穢れの範囲が拡大し複雑化した。神観念や信仰に関わる穢れが基本で、神事を優先する政治姿勢が穢れの社会的意味を拡大し、穢れを管理する陰陽師が主宰する儀礼の精緻化と合わせて、民間へも大きな影響を及ぼしたことが予想される。
   有力な神社には触穢思想が浸透したが、鎌倉初期とされる『諸社禁忌』(『続群書類従』八〇)は詳細で、牛山佳幸の指摘した(牛山、一九九六a)、『神祇道服忌令』(『続群書類従』八一)も複雑な浄穢規定である。戸隠ではその影響が、文安三年(一四四六)施入の『般若心経』版木の裏面に刻まれた「戸隠物忌令」として現われているという。女性の出産や月経の血を要因とする穢れの対象が古代より拡大し、忌みの日数も増加し、恒常的な穢れに近づいているとされる。穢れの明文化の動きは、必然的に穢れ観念を拡大し、一時的規制から恒常的規制へと踏みだしていく契機を作りだしていたともいえる。(P.197-199)

「国家が穢れを管理する意図が明確化…」
遠い昔ではなく、現代の身体の管理や衛生思想が思い浮かぶが、合わせて子どものコミックコーナーも浮かんでくる。
迷信_儀礼の精緻化と科学的態度とのやり取りには 後世への責任がかかっている