本の抜粋の続き5

『女人禁制』吉川弘文館 歴史文化ライブラリー 2002年 鈴木正崇
○web上の販売ページ
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9975549748
立山信仰・曼陀羅の解説_抜粋した文中にある図32、34の関連の関連ページです
http://www2.ocn.ne.jp/~tomoya1/index.html

当時は このページの地獄絵にリアリティがあったわけで 実際 今でも恐いです
途中気分が悪くなって 作業に手間取りました
特に後半は 元気な時にお読み下さい
こんな中で もし違う感性をもっていたなら 生き難かっただろうな

※おことわり_本文中の送り仮名ルビは便宜上多少の変更(重複等)があります

仏教と女性
 仏教の教義と女性
  女人往生
   教義に関しても女性を完全に排除するわけではなかった。女人は障(さわ)り多き存在だが、有難い仏法の力で往生できるという女人往生思想が平安時代に旧仏教を主体に現われて(平、一九九二)、大きな流れとなる。法然(ほうねん)は『無量寿経釈(むりょうじゅきょうしゃく)』で四十八誓願中の第三十五の女人往生願について言及し、比叡山高野山などの山岳、東大寺・祟福寺・醍醐寺などの寺院が女人を拒否してきた実状を述べる。「比叡山はこれ伝教(でんきょう)大師の建立、桓武天皇の御願なり。大師自ら結界して、谷の境(さか)ひ、峰を局(かぎ)つて、女人の形を入れず。一乗の峰高く立ちて、五障の雲聳(そび)ゆることなく、一味の谷深くして、三従の水流るることなし。薬師医王の霊像、耳に聞いて眼に視(み)ず。大師結界の霊地、遠く見て近く臨まず。高野山弘法大師結界の峰、真言上乗(じょうじょう)繁昌の地なり。三密の月輪(がちりん)普(あまね)く照らすといへども、女人非器(ひき)の闇をば照らさず。五瓶(ごびょう)の智水(ちすい)等しく流るといえども、女身垢穢(にょにんくえ)の質には灑(そそ)がず。これらの所において、なほその障りあり。いかにいわんや、出過三界(しゅっかさんかい)の浄土においてをや」として、「悲しきやら、両足を備(そな)ふといへども登らざるの法の峰あり」と女性は霊山へ足を踏み入れず、遠く仰ぐだけであると慨嘆している。法然は女人が五障三従で煩悩深重(ぼんのうしんちょう)の身であることを前提としたうえで、男女の区別を問わず極楽往生して成仏を遂げるものとして念仏をといた。しかし、女人禁制については、あくまでも経典の趣旨を述べるにとどまり、積極的に否定論を展開したわけではない(小原、一九九〇)。法然親鸞(しんらん)のように念仏による女人往生を説く鎌倉新仏教の言説が、直接に女性救済に結びつくという見解(笠原、一九七五)に対しては批判が多い。一遍だけが男女、浄不浄を問わず、非人を含めての極楽往生を問いた。
   一方、道元(どうげん)は『正法眼蔵(しょうほうげんぞう)』「礼拝得髄(らいはいとくずい)」巻の後半部分で「日本国にひとつのわらひごとあり。いはゆる或(ある)いは結界(けちかい)の地と称じて、比丘尼(びくに)・女人を来入せしめず。邪風(じゃふう)ひさしくつたわれて、人わきまふることなし。(中略)かの結界と称ずる処にすめるやから、十悪をおそるることなし、十重(とえ)つぶさにをかす」と述べて、男女区分の「かくのごとくの魔界は、まさにやぶるべし」と女人結界を痛烈に批判している。ただし、この言説は比叡山など旧仏教への批判的言辞として書かれたものであり、後半は出家至上主義へと転換して女人成仏については否定的となる(今枝、一九七九)。『正法眼蔵』が二十八巻本から七十五巻本に整理された段階で、この部分は削除されてしまったという。
   仏教の教義にある女性排除の論理は、日本的な選択的仏教受容の過程で徐々に浸透し、排除と包摂の間を揺れ動いた。その緊張感がよってたつ原点として男性側が意図的に設定した規則こそ、山岳や寺院における女人禁制であったのだろう。男性側の持つ女性側への危うさの認識がその根底にあり、ジェンダー・バイアスがあることは否めない。(P163-165)
仏教と女性
 死後の女性と穢れ
  血盆経
   女性の不浄観が社会に浸透するのに力があったのは、中国で作られた偽経とされる『血盆経』の流布で(武見、一九七七。松岡、一九九一)、血の池地獄を強調して、女性のみが堕ちる新しい地獄観を定着させた。その趣旨は女性の経血や産血が地面に流れ、その不浄が地神に触れて穢し、女性が穢れた衣類を谷川で洗い、その水で煎じたお茶を諸聖に供養した罪のために、死後自ら流した血でできた血の池地獄に堕ちて血盆池で苦しむと説き、血の穢れの観念を増幅した。『血盆経』は室町時代の十五世紀ごろに伝来し、写本の流布は江戸時代であるが、熊野比丘尼の『観心十界(かんしんじつかい)図』の絵解きを通しても広まった(萩原、一九八三)。この曼陀羅は主に女性を対象とする絵解きに使われたので、女性に関連する血の池地獄、石女(うまずめ)地獄や両婦(ふため)地獄を描き、目連救母(もくれんきゅうも)の諸相や地蔵の六道輪廻(ろくどうりんね)からの救済や、施餓鬼(せがき)供養と施しの功徳を説いて、熊野への参詣を勧めた(黒田、一九八九)。立山の絵解きに使われた『御絵伝(ごえでん)』、つまり立山曼陀羅(図32{上記webページ参照})にも、図幅の中に出産で亡くなったために血の池地獄に堕ちて苦しむ女性や、女性供養の『血盆経』を納める姿が描かれ、死者供養が願われた(林、一九八二。高達、一九九七)。こうした女性救済のために、立山芦峅寺(あしくらじ)で行なわれたのが、布橋(ぬのはし)灌頂とよばれる逆修(ぎゃくしゅ)の儀礼で、山を焦点として現世で浄土に結縁する女性のために行なわれた。
   一方、産死者の供養である「流れ灌頂」(図33略)にも『血盆経』の影響がある。これは川施餓鬼で水に死者名を書いた灌頂幡(かんじょうばん)や塔婆(とうば)をさらして死産の女性を供養したが、出産の穢れと死の穢れという女性でないと起こりえない二重の穢れを清めるとされたので、女性の不浄を強調した。赤子の死をもたらせば産褥(さんじょく)死の死霊はウブメ(産女)となって彷徨(さまよ)うのであり、幼児死亡率の高かった当時、女性は一層の劣位性を帯びることとなった。地獄に堕ちずに成仏するには『血盆経』を読誦すればよいとされ、女性は経典に従って施餓鬼供養を営み、経典を書写して往生を祈願し、池や川に投げ入れて追善供養をした。
   このように近世では女性の月経や出産の穢れ、血の穢れの強調、それに対する不浄観、神仏を穢して罰を受け悪業が深いという思想が、絵解きや和讃など視聴覚に訴える場や女性の講の集まりを通じて民間信仰と習合して速やかに深く浸透した。女人の念仏講で唱えられる和讃のうち、『血の池地獄和讃』では、『血盆経』の血の池地獄の描写が取り入れられ、女性は「不浄水」の月経の経血によって神仏を穢す罪を犯すために、身分の上下にかかわらず血の池地獄に堕ちると説く。和讃は女人講や子安講などでも読まれ、十九夜講の月待ちでは如意輪観音(にょいりんかんのん)に安産祈願がなされたが、この観音の形姿は膝を立てた姿で女性の座産を現わすとも考えられていた。山形県置賜(おきたま)地方では講の集まりで「女一代月役守(つきやくもり)」という呪符(じゅふ)を寺で作って配ったが、もともとは修験が配布し、これがあれば田屋(たや)という月小屋に籠ったり別火する必要がなかったという。そこには「モトヨリモチリニマチワル神ナレバ月ノサワリモクルシカルマジ」と和泉式部への熊野権現の歌が書かれてあった。これは立山芦峅寺(あしくらじ)が配った「月水不浄除御守」(図34{上記webページ参照})と同じである。『女人往生和讃』も「血盆(血の池)地獄」に堕ちるとして、『大無量寿経』に説く阿弥陀の女人救済の請願(せいがん)、第三十五願に触れ、五障三従で高野山に登れない由来を説いて、阿弥陀にすがる往生祈願を行なう。死者供養、安産祈願、往生祈願などに『血盆経』の影響がある。
   『血盆経』は女性の生物学的特徴を罪とし、血に対する嫌悪を、女性の不浄、穢れへと拡大した(中野、一九九三)。曹洞(そうとう)宗では『血盆経』は女人救済の経として定着し、女性が授戒会(じゅかいえ)で授かった『血盆経』を、信者の不浄除けや往生祈願の護符として配り、死後に棺に納めた。これは結果的に女性の不浄視を拡大したといえる。『血盆経』は女性固有の生理、特に月経と出産の血の穢れを強調し、産死を血の池地獄に結びつけ、女人往生や不浄よけの祈願を根拠付けた。地獄と女性の結合を説く教説、立山や恐山など山中にある血の池地獄の実在感、立山や熊野など山の聖地での救済の可能性など、多様な要素を女性に収斂させ、女人結界を維持する理由づけとしての不浄観を定着させる機能を果たしたのである。血穢の観念が仏教の正典にない、いわゆる偽経と結びついて流布した皮肉な歴史といえよう。文字に書かれた経典は、中国で作られても正統的なものとして民間に受容され、穢れの強調、不浄観の生成、差別の固定化に大きな影響をもたらした。仏教と民間信仰の習合が穢れ観を定着させ増幅させた歴史が極端な形で現れているのである。(P.179-183)