本の抜粋の続き4

『女人禁制』吉川弘文館 歴史文化ライブラリー 2002年 鈴木正崇
○web上の販売ページ
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9975549748

仏教と女性
 仏教の教義と女性
  龍女成仏と五障
   (前略)吉田一彦によれば、五障の教説は八世紀ごろまではほとんど取り上げられず、龍女成仏の教説や女性は罪深いという考えも成立していなかったという(吉田、一九八九)。しかし、九世紀末から十世紀にはこの教説が流布し、僧侶以外にも広まって十一世紀には文学作品にも登場し、女性の罪業観念の定着とともに流布して、平安時代後期に定着したという。『法華経』では五障と、「女身垢穢(にょしんくえ)、是非法器(ぜひほうき)」という女性不浄観が抱き合わせになっているが、日本では五障が「五つのさわり」と訓じられて、教典が説くような五種の立派な存在(梵天ぼんてん王、帝釈天たいしゃくてん、魔王、転輪聖王てんりんじょうおう、仏身{P.158記載})になれないという主旨から離れたと示唆する。サワリという言葉に読み替えられて、女性に内在する罪、煩悩ぼんのう、悪行、業、さらには月経や月の障りなどの意味が複合して、不浄観が増幅し、その結果、女性に内在する罪障(ざいしょう)という本質主義的な観点が定着したという。教説が直ちに女性の蔑視や排除をもたらしたのではない。サワリという言葉は民間で広く使われ、現在でも祟(たた)りをも含めた神霊の働きや作用という意味がある。また、龍女は龍が水の神で水辺の女神とも重なることや、『法華経』が滅罪の効果を持つとされたこと、教典の読誦(どくじゅ)が雨乞いに霊験があるという信仰があったことなど、「提婆達多品」は民間信仰と習合する要素を多く含む。『法華経』には神仏混淆(こんこう)の女神信仰や、荒ぶる神が仏教に帰依(きえ)していく様相が読み取れ、民衆にとっては受容しやすく、その読誦は民間にあっては、救いに至る道として肯定的に柔軟に受け取られていた。
   問題は三従(さんしょう)である。五障は当初は単独で使用されたが、三従と一体化した成句となると差別の観点を含みこむ。三従とは、儒教思想に見られ、「婦に三従の義あり、自分勝手の道なし。まだ嫁がざるは父に従い、嫁いでは夫に従い、夫が死せば子に従う」(『儀礼』喪服篇)とあり、女性は子供の時は親に、嫁いだ時は夫に、老いては子に従うとされ、明らかに男尊女卑である。この文言は仏典の『大智度論(だいちどろん)』、『法華経』第二十八などにも出る。三従は女性の罪深い悲しい身の上を表現し、五障と組になって「五障三従」という女性の業障深重(しんちょう)を表す決り文句になる。生まれながらに五障三従の身で救われないという単純な思考は、すぐには受け入れられず、社会・政治状況の変化に伴って徐々に定着した。(P.159-161)

本を読んで手が止まる…
午前中、ペーパーウェイトの素材にする石を拾うための下見と、用事で近所のカルフールに行く。
併設している小物や生活雑貨売り場の品々を見て、ああ 手が止まっているなあ と思う。