本の抜粋の続き

『女人禁制』吉川弘文館 歴史文化ライブラリー 2002年 鈴木正崇

抜粋はあと数回です。

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http://www.on-kaiho.com/info/info_history.html

女人結界
 女人結界の成立
  戒律の日本的受容
   なぜ日本では戒律上では、男女両性に課せられた禁忌の規定が、女人禁制として突出してきたかが問われなければならない。牛山(佳幸)はその理由を、平安時代の寺院制度の変化に求める。国家仏教の公的な部分を男性が独占して、女性を排除する方向に転換し、女性に出家制限を課して尼寺が消滅したことが原因であるという。具体的には、比丘尼戒壇がなかったので尼の公式受戒が行なわれず、官僧の資格を得る制度(年分度者制ねんぶんどしゃせい)も長期の籠山修行を条件に課すなど、女性を締め出す方針がとられた。律令国家の基本方針の官僧官尼体制が放棄され、十世紀ころまでには尼寺は急激に廃寺、あるいは僧寺化して消滅した(牛山、一九九〇)。僧寺が残った結果、その規定の女人禁制の実態のみが史料や文学に反映して残されたという。また、国家管理の僧尼令は機能しなくなり、規制は各寺院の自主性に任せられ、平安時代中期以降は、寺院では僧侶の妻帯や家庭を営むことが一般化し、破戒行為である女犯が日常化した。寺院関係史料や文学に「女を嫌う」の表現が頻出するようになり、経典の女性蔑視の文言を「方便か戒律重視の寺院であることの定型文句」として引用し、女性の入山拒否の描写をするのは、女人禁制形骸化の危機感の発露であるという(牛山、一九九六a)。また、尼寺が少なくなり女性が僧寺に修行の場を求めれば、僧寺が女性に対しての禁忌を強化して、入山拒否から女人禁制へと展開した可能性がある。鎌倉時代叡尊(えいぞん)らが女人救済思想に基づいて尼寺を建立するが少数にとどまり、尼の劣勢は定着する。
   女性に劣勢が付与される状況の背景には、儒教的な家族倫理や道徳規範が貴族社会に定着して家父長制社会が成立して、女性の社会的地位が低下するという社会変動があったとする。牛山は儒教の女性蔑視思想の影響を重く見るが、女人結界の成立もその直接的結果と言えるかどうかは不明である。儒教は遅れて受容され、民間での展開の過大評価は再考の余地がある。また、寺院制度の変化という支配層からの政策に変化の要因を求めて、上からの方向性を強調しており、在地の聖地観や民俗的基盤への目配りはない。そして、女人結界を強固に維持した修験道は半僧半俗で、優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)の系譜を引き、戒律を柔軟に解釈してきたことも考慮されない。しかし、戒律が女人結界を生む要因の一つであることは確かであり、それが差別に転化する契機を明確化した点は高く評価できる。(P.128-129)

「戒律が…差別に転化する契機」…
内に向かっていたものが外に転化する 転化して実態化する
うーん、「在家」のセコムや公共の場の監視カメラ 契約の場におけるカメラ
線引きの実態が際立っているが もともとは何だったんだろう
セキュリティの効いた校門の外 公道に季節外れのタンポポが咲き 蝶は超える