『女人禁制』

吉川弘文館 歴史文化ライブラリー 2002年 鈴木正崇
全体の目安となる目次の見出しと抜粋の続きです。
 女人禁制の現在ープロローグ
 女人禁制への視角
 大峯山(おおみねさん)の現状
 山と女性
 女人結界
 仏教と女性
 穢れ再考
 あとがき

女人結界
 女人結界の成立
  成立の時期
   女人禁制は伝承の世界だけでなく、史料のうえで明確にその変遷を押さえておく必要がある。女人結界(にょにんけっかい)の始まりについては、平雅之の九世紀後半説や西口順子の十一世紀後半説がある(平、一九九二。西口、一九八七)。しかし、平安時代の史料には女人禁制という言葉は現れず、女人結界の用例はあるという。牛山佳幸の指摘のように、女人禁制は後世の概念や用法で、女性差別と強く結びついており、容易に用いる議論は混乱をもたらすという主張は正しい(牛山、一九九六a)。ただし、ここでは女人禁制という言葉を、歴史的に限定されたものではなく、より普遍性を帯びた概念として使用する。(後略)(P.122)
  成立の理由
   女人結界の成立理由として、牛山佳幸は史料による限り仏教の戒律にあったと考える。女性を男性の修行の場から遠ざけるという仏教の戒律(不邪淫戒ふじゃいんかい)に根拠を求めて、禁欲主義の現れとする。(中略)基本的な戒律は出家者の守るべき基本項目の規定であり、不偸盗戒ふちゅうとうかい(盗みをしてはならない)、不飲酒戒ふおんじゅかい(酒を飲んではならない)、不邪淫戒ふじゃいんかい(姦淫をしてはならない)、不殺生戒ふせっしょうかい(生き物を殺してはならない)、不妄語戒ふもうごかい(うそを言ってはならない)が基本となる五戒であるが、ここでは不偸盗戒・不飲酒戒・不邪淫戒の三つが示されている。このうちの不邪淫戒こそが女性の入山拒否を生み出したのであり、女人結界は比叡山の山内居住僧侶の女犯(にょぼん)を未然に防ぐための禁欲主義に基づくという。出家僧であれば不邪淫戒は当然守るべき戒であり、寺院や聖域への女性の立入りを禁じることは自然な成り行きで、出家という出世間の行為に伴う当然の帰結であった。
   (略)このようにみてくると、比叡山や金峯山などの寺院における女人排除は、戒律に基づくもので、禁欲的な修行に際して異性間の性的交渉を未然に防ぐためであったことがわかるのだという。戒律と女人禁制の関連については、すでに堀一郎が指摘していたが(堀、一九八七)、これまでは当然のこととして取り上げられなかったのであり、虚心坦懐(きょしんたんかい)に見れば、修行を旨とする仏教寺院にとっては当然の規則で、女人結界は仏教の戒律から導き出された実態的帰結であった。結界の本義のシーマ(sima)は「堂舎の結界」でありこれを「山の結界」に読み変えたのである。戒律に注目すれば、朝鮮や中国などの東アジアの大乗仏教圏だけでなく、南アジアのスリランカや東南アジアのタイ、ミャンマーラオスなどの上座部仏教圏では、戒律によって修行場から女性が排除されている。各地域で異なるのは女性の修行者である尼、いわゆる比丘尼(びくに)の位置づけであり、現代でも比丘尼戒の復活をめぐって議論されている。(P.124-126)
  尼と尼寺
   牛山佳幸は、飛鳥時代の七世紀初頭には僧寺と尼寺が別個に建立され、僧と尼は対等な形で国家仏教を担ったという寺院制度からの視点を導入する(牛山、一九九六a)。養老二年(七一八)制定の『養老律令』規定の「僧尼令(そうにれい)」では、ほとんどの条目が「凡そ僧尼」で始まり相互の区別はない。(略)師匠に教えを乞うことや、死の病の師匠のお見舞い、潔斎・善行・聴学などの特別の事情がある時を除いて、僧が輒(たやす)く尼寺に入ったり、尼が輒く僧寺に入ることを禁じる。在俗の女性や尼の僧房からの排除は不邪淫戒に基づく。また、僧寺と尼寺が明確に区別され、前者は女人禁制、後者は男子禁制が規則として掲げられ、相互に対等に禁制が課せられる。確かに「男子禁制」の規定があることは注目されてよい。「女人禁制」の規定の初出史料はこの両条(『養老律令』第十一条、第十二条)で、天武・持統期にまで起源が遡るという極端な考えも示せるのである(大宝僧尼令も同様)。「僧尼令」は仏教の僧侶が守るべき戒律を徹底させるために、俗法である律令の中に取り込んだのであり、国家は仏教教団の内部規制を包摂した僧尼令のもとで支配の禁制を国家の管理下に入れた。(P.127-128)

これが始まりだとしたら「集中しているので話し掛けないでください!」にまで
戻っていただきたいものだ
iポットやウォークマンが浮かんでしまった