『哲学者広松渉の告白的回想録』広松渉著 小林敏明編 河出書房新社 2006年
学生のころゼミで広松渉の「物象化」という言葉に触れ、全く分らなかったが、『日本の現代思想』の文脈に置くと少しは理解できる。福岡県の柳川で育ち、お父さんが早くに亡くなって、筍生活の末、行商までしたとあった。筍生活というのを初めて聞いた。タケノコの皮を剥ぐように、家の品物を売ってお金に代える生活。今で言うネットオークションか。生涯、デモと哲学の生活の軸がぶれることがなかった人物。文学は知らないと言うが、読む時間を割けなかったのだろうと人から聞いて、重みが増す。
業績を大雑把に『集中講義!日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか』(仲正昌樹著 NHKブックス 2006年)より長文引用。

1、空回りしたマルクス主義
第二講 大衆社会サヨク思想
新左翼的な美学の限界
 大学内政治運動としての「全共闘」それ自体は、あまりポジティブな影響を残したとは言えないが、西欧諸国の六八年革命がそうであったように、アングラ演劇、映画、詩、フォークソング、ジャズ、ロックなどの領域で、カウンター・カルチャー(対抗文化)的なものを生み出すうえでは一定の役割を果たした。(略)社会主義リアリズムから明らかに逸脱しているようなものを含めて、都市の大衆文化から生まれてきたカウンター・カルチャー的なものを戦略的に積極活用しようとするのは、西欧諸国の「新左翼」共通の特徴と言ってもよい。
(略)
しかし、カウンター・カルチャーと連動したフランスなどの「六八年革命」からは、マルクス主義的な二項対立とは異なる、新しい思想の言語が生まれてきたのに対し、日本の新左翼的な文化論・美学は、マルクス主義的な革命の言語の呪縛からなかなか解き放たれなかった。日本の新左翼にとって、カウンター・カルチャーの内に見出される”美的(に撹乱効果を及ぼすよう)なもの”は、社会主義的革命を早期に達成するための、体制破壊のエネルギーを供給する源ではあったが、そこからマルクス主義的な二項対立に回収されないポスト近代的な世界観が生まれてきたわけではなかった。日本では、「美」によって人間としての「主体性」を取り戻そうとした新左翼の疎外革命論的な言説と、「美」を通して見えてくる「近代的主体の終焉」を告知する「現代思想」の言説の間には大きな断絶がある(と少なくとも一般的に考えられている)。


人間の顔をしたマルクス主義
 日本的なマルクス主義から、日本の「現代思想」への移行において、吉本(隆明)とともに一定の役割を果たした新左翼系の思想家をもう一人挙げるとすれば、それは現代哲学にも通じる新しいタイプのマルクス主義を確立したことで知られる広松渉(一九三三ー九四)だろう。吉本より九歳若い広松は全共闘運動の直前までは、元共産党員でブント・シンパのドイツ哲学研究者としては知られていたが、まだ独自の体系を示すには至っていなかった。運動がなけなわになった六八年頃から、初期マルクス理解において疎外論よりも、物象化論を重視すべきだとの見解を示し、当時の新左翼に支配的だった疎外革命論的な議論を批判し、ブント系のセクトに対して強い影響をおよぼすようになった。
(略)
 一九五三年のスターリンの死後、ソ連共産党によるイデオロギー統制が弱まると、疎外された労働者の主体性を取り戻すことの重要性を強調するルカーチ流の疎外革命論が、人間の顔をしたマルクス主義として、西欧諸国で広まり、日本の新左翼も直接的・間接的にその影響を受けるようになった。ルカーチ流の[疎外ー物象化]論は、自己の存在に意味を見出すことのできない不条理な状況に置かれた「主体sujet」の[企投(きとう)projet」に自由の可能性を見るサルトル実存主義とも親和性があるーーように少なくとも表面的には見えるーーため、サルトル的なアンガジュマン(政治へのコミット)に憧れる新左翼系知識人・文化人の思潮とも相まって、新左翼における主体性重視の傾向を強めていった。


疎外から物象化へーー広松渉の戦略
 『歴史と階級意識』のルカーチは「疎外」と「物象化」を、同じ現象の両側面ーー主体の側での「疎外」=”物”の側の「物象化」ーーとして記述していたふしがある。ルカーチ流の疎外革命論に賛同的な新左翼と、批判的な旧左翼の双方もだいたいそのように理解していたわけであるが、広松は全共闘運動が盛り上がっていた時期に、「疎外」と「物象化」を同じものとして捉えるのは誤りであると指摘した。「疎外」というのは、依然としてヘーゲルシェリング(一七七五ー一八五四)などのドイツ観念論の影響を強く受け、意識哲学の枠組で考えていた初期マルクスにとってのキーワードであるにすぎないが、「物象化」というのは、市民社会において労働者、資本家双方の社会的な振る舞いや認識を深いところで規定している社会的関係性を体系的に分析するために見出された概念であって、『ドイツ・イデオロギー』(一八四五ー四六)から『資本論』に至る彼の思考形成過程において、主要な役割を果たした。「疎外」は個々の主体意識の「内部」での問題であるが、「物象化」は個々の主体を、結び付けている社会的関係全般を規定している、より根本的な問題であるという。こうしたマルクス理解のもとで、広松は、新左翼の革命論の軸を、「疎外」から「物象化」へとシフトさせるべきだと問題提起する。
 この議論によって広松は、単純な下部構造=生産様式決定論を取って、主体を無視してきた共産党などの正統派マルクス主義と、実存的な主体性を強調しすぎるあまり、勝ち目のないラディカルな行動に走りがちの新左翼セクトの双方から距離をとる。主体の「意識」に偏っても、客体としての下部構造に偏っても、ダメなのである。資本主義と市民社会を解体に追い込むには、まず、革命的左翼を含めてすべての人を拘束している「物象化」のメカニズムをきちんと把握しておく必要がある、ということになる。
(略)
 『ドイツ・イデオロギー』以降のマルクスが、従来の「主体=主観/客体=客観」の二項対立に回収されない新たな枠組みで思考するようになったというマルクス解釈上の革新をもたらした点で、広松は、フランスにおける構造主義マルクス主義アルチュセール(一九一八ー九〇)に相当する役割を果たしたという見方もあるーーアルチュセールの教え子には、フーコーデリダ(一九三〇ー二〇〇四)、バリバール(一九四二ー)などのように、狭義のマルクス主義の枠組みを外れて、ポスト構造主義的な方向に進んでいった者が多いのに対し、広松の弟子の多くは、広松物象化論の”深さ”に圧倒され続けて、先にいけなくなった者が多いわけだが。


認識の構造を明らかにする
広松の半ポストモダン
 物象化論を軸として、それまで”純粋にアカデミックな哲学”とは異質なものと思われていたマルクス主義を、ドイツ観念論現象学などの哲学的な言語と接続可能にした点で広松の業績は大きい。彼が開拓したアプローチのおかげで、必ずしも政治的行動を好まないアカデミックな哲学を志向する人たちも、認識論や行為論のテクストとしてマルクスを読むという傾向が生まれてきた。彼の影響は、直接の哲学的な弟子である倫理学者の大庭健(一九四六ー)や熊野純彦(一九五八ー)だけでなく、社会学者の代表的な論客である大澤真幸(一九五八ー)や宮台真司にも及んでいる。
 しかし、物象化の問題を哲学的に掘り下げすぎたため、マルクス主義的な実践によって除去すべき”悪しき物象化”ーールカーチたちが問題にしていた主体の側の「物象化≒疎外」ーーと、人間が言語・記号を操る社会的存在である限り除去しようがない”根源的なレベルでの物象化”の間の境界線をどこで引くのかという問題が出てきてしまい、彼と弟子たちは理論的に袋小路にはいっていく。民族や言語ごとに、あるいはジェンダーセクシュアリティによって異なる物象化の諸形態を均して、より普遍的な文化を実現することができる”ポジティブな物象化”へと転換することは可能か、といった問いに大しては、広松流の「共同主観性」と絡んだ根源的な「物象化」論では、はっきりと回答することができない。
 広松の[物象化=共同主観性]論の登場の一つの契機として、日本の哲学・思想界では、「主体=精神/客体/物質」の二分法のいずれかの項を本質視して、他方をその派生物とみなす実体論的な議論の欠陥が認知され、あらゆる”物”を、それを構成する社会的な関係性という視座から捉え直そうとする関係論的な見方が有力になっていった。広松はそれを「物的世界観」から「事的世界観」への転換と表現している。我々が認識しているあらゆる”もの”は、実は、”我々”を拘束している社会的な関係性の中で意味付けされる”こと”によって、”存在”しているのである。
 これはある意味、非常にポストモダン的な方向へのパラダイム転換ではあるが、マルクス主義者としてのアイデンティティにこだわった広松は、「資本」という物象化された関係性(=「こと」)の背後に、搾取されている労働者の”生の現実”が隠されているという疎外論的な見方を捨て切ることはできなかった。そのため彼は、そうした”生の現実”さえも関係論的に相対化しようとするように見えた、フランスのポストモダン思想に対しては距離を取り、八〇年代の「現代思想」ブームに全面的に乗ることはなかった。(P.60-79)

『集中講義!日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか』仲正昌樹著