「普遍的な教育というものがあるとしたらどんな教育だろうか」

子どもの、これからの女子教育・ジェンダー教育について、考え悩まされることが多い。学校の”決まり”は3桁に迫る勢いである。時代が動くなかで、生きてゆくための智恵、教育を、できる範囲でどのように用意してやればよいのか。

身近なところからということでまずわが身を振り返ってみる。当時の感覚を思い出しつつ、現在から見て何が良くて悪かったのか。しかしまず当時の感覚というものが記憶としては遠すぎて、ほとんど蘇ってこない。蘇ったとしても現在では随分と教育の環境も社会も変化していて、参考にならない場合が多いと言われるし、実際そうだろうと思う。で、「普遍的な教育というものがあるとしたらどんな教育だろうか」と考えてみる。

以下はそれらとは関係なく最近あった出来事。

エミリー・ウングワレー展』というのが開催されているのは知っていた。私は観なかった。そのエミリー・ウングワレーの紹介番組をNHKテレビの『新日曜美術館』で偶然見た。
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2008/0622/
その画面に現わされた筆致の力強さ、画面の大きさ、北欧に住んでいるのかと思えるくらいのブルーに対する繊細で透明感のある色彩感覚、野外で生活し野外で描くという制作風景に、テレビを通してでも圧倒されてしまった。どっかと大地に腰を落ち着け、自らの日常と非日常、伝統的に儀式で描かれてきたボディペインティングで培った手法を、どのようなきっかけによったのか、アクリル絵具とキャンバス地に移して、描いてきたものだという。

図書館で目につく本があった。『イヌイットの壁かけ』(岩崎昌子著 暮しの手帖社 平成12年8月)である。表紙の地が黒だったので、なんともデザインのかわいらしさが浮き上がっていた。中をみると本当に北極圏に暮らし続けてきた彼女たちの手仕事の紹介である。カリブーやアザラシの毛皮を口でなめしてパーカー(防寒着)を作り、その裁ちくずでアップリケや刺繍をして壁かけを作るのだと言う。やはり感銘をうけた。

紀伊国屋書店の文庫売り場では、ジョン・ラスキンの『ごまとゆり』が平積みになって売っていた。「運命の女」を擁したラファエル前派の評論における中心人物である。自宅の本棚にあったので読んでみた。19世紀後半に入ったころのヴィクトリア朝時代の中産階級を相手にした講演録をまとめたものであった。『ごま_王侯の宝庫について』(ルキアノス(ローマ帝政期のギリシャの作家、ルシアン120〜180ころ)の『漁師』に出てくる”ごま”より)の方は、良書の勧め(多読よりは良書を読むことが人生においてどれほどの糧になるのかや、当時のメインになることのない新聞記事の紹介やゴシップ的なジャーナリズム批判、差別や貧困による致死や不正、戦争については黙し、殺人犯人を追い掛ける)や、言葉の正確な使用、土地問題など、随所に聖書や『アラビアンナイト』、哲学、科学などを引用しつつ、中産階級の人々を畳み込むように説得(時には痛烈な批判)する内容であった。読んでいて、いつの時代の話かと思われた。

『ゆり_王妃の庭園について』の方は女性の教育に関する内容であった。たとえばこれらの女性がどれほど賢明であるか。シェイクスピアにおいては、コーデリア、デズデモーナ、イサベラ、ハーマイオニ、イモージェン、キャスリン妃、バーディタ、シルヴィア、ヴァイオラ、ロザリンド、ヘレナ、ヴァージリア。ウォルター・スコットにおいてはエレン・ダグラス、フローラ・マカイヴァ、ローズ・ブラッドウォーディン、キャスリン・シートン、ダイアナ・ヴァーノン、リリアス・レッドガントリット、アリス・ブリジノース、アリス・リー、ジーニー・ディーンズ。ギリシャ神話においてはアンドロマケ、カサンドラナウシカア、ぺネロぺ、アンティゴネ、イペゲニア、アルケスティ。まだまだいくらでも例が出せるそうで、女性の教育はおろそかにしてはいけない、家庭教師を家政婦扱いしてはいけない、男性の教育より劣らせてはいけない、などなどいささか痛快な感じを受けた。もちろん「その教育は男性を正確に助けるため、導くため」とあり上限を設け、また後に女性を「運命の女」化しているとの批判を受けることになるのだが(いつ誰によって批判されたのかは、正確には分らない)。

さて、どのような種をまいてやったらよいのか。それもこの子の様子を見ながら、である。