母と子どもと木曽路を旅する

一泊二日の旅行に出かけた。親孝行なんてできる境遇に身を置かなかったのだが、さすがに「今しかない」と身を起こして、日程を組んだ。決めてみると情報は出てくる。インターネット、パンフレットをたよりに直接宿に申し込むと、パックの方が割安なのが分り、最寄りの旅行会社を利用する。

母への誘いの電話ではまず「見舞いに行く」と言う。すると家族への気兼ねがありそうなので、それではと切り出す。引越した母の、自分の荷物が減って行くなかで、選んだ旅先は若い頃から避暑にしていて馴染みの場所なので、旅先の記憶は残っているだろう。

ハードスケジュールをこなす子どもも説得する。乗り物が嫌いでこちらもややこしいのだ。「で、どこに行くの?」「下呂温泉よ。」「ゲロ? いやだ」「名湯だってば!」。両者を説き伏せて、旅行会社にチケットを受け取りにいくと、旅館も電車の手配もすべてチケットがそろっている。便利だ。母へのお土産を用意する。自分で煎じた人参茶、車内できく裕次郎のCDの音楽、戻ってからやる手芸用品。

旅行当日、家を子どもと二人で出て、新幹線に乗る。JR高山線の始発駅で母と合流する。母の家族も来てくれて、気持ち良く見送ってくれた。車内で「釜飯」を食する。昔は一つ一つ素焼きのような土鍋に入っていたのだが、プラスチック製の釜にかわっていた。子どもの頃には地味に感じられた「まぜご飯」は、懐かしい味となっていた。食後、列車の中で、携帯に入れた裕次郎の歌をイヤホンで聞いてもらう。歌詞カードも用意しておいた。事前に聞いたなかでは「わが人生に悔いなし」(なかにし礼 作詞 加藤登紀子 作曲 若草恵 編曲)がよかったが、聞けるかなあと心配であったが、楽しんでくれた。窓から覗く飛騨川の色はターコイズ・ブルー、青緑、碧色、渓谷はやはり、ところどころ深かった。

宿についてから、昔の旅の仕方をいろいろと、エピソードも交えながら話してくれた。社員旅行や慰安旅行でよく出かけて、昔はバスや車で移動することが多く、一度、フロントが犬の口のような形をしたバスが故障して、トラックもやっていたから社員総出でバスを直した話。1960年代の話し。

お湯につかって、落ち着いてから川に降りようとでかけたら、日ざしがつよくて喫茶店で休憩となった。車内で寝ていた子どもが軽食を食べている。母がしっとりと話す。うっすらと涙を浮かべていた。懸命に働いてきてた母。年をとって、美しい横顔であった。宿に戻って、並んだ料理を食べて、鮎の塩焼きのほぐし方を教わって、子どももまんざらでもなさそうだ。卓球をしてお土産を選んで、飛騨コーヒー牛乳を飲んで、お湯巡りは諦めて、夜はふけた。

翌朝はやく風呂に入ってから、おみやげをもう一つ取り出す。絵を2枚描いてきて、一枚選んでもらった。「がけっぷちで(ぎりぎりのところで)咲いている花だよ」と言って渡した。朝食を食べてゆったりし、時間前に宿を出た。送迎の方が川の公園を一周してくれた。駅の近くで降ろしてもらい、ランチをしてお土産を見て駅に向かう。

出発より早い時間なので人はまばらと安心していたら、次第に込んできて、あれよあれよという間にあふれんばかりの人。同じ列車に乗るのかしらと思いきや、そうである。込み合う車内。なんと指定席が重複発行されていた。駅で日付けを間違えて発行してしまったらしい。飛んできた車掌さんは汗をながしているが要領を得ず、仕切りが伝わらない。思わず仕切ってしまった。子どもは「やれやれ」と場所を変え離れている。「こんなんでは台なしだ」と一段落してから、また母に音楽を聞かせて、なんとかムードを変えてもらう。

静けさが戻り下車駅が近づく。「ハプニングがあったけど、楽しかったね。またね、元気でね」と別れる。子どもとこだまでもどる。駅に降り立つと、ボンッと空気が膨張したかのようであった。