『戦後という地政学』歴史の描き方2
ひろたまさき/キャロル・グラック 監修 西川裕子 編 東京大学出版会 2006年11月

目次そのものが興味深かったので挙げてみた。

刊行にあたって

第二巻小序

1 占領と戦後のイデオロギーの形成
 1占領空間の戦争シンボル_国旗とGHQ(長 志珠絵)
 2主体性と動員_戦中から戦後へ(J・ヴィクター・コシュマン 葛西弘隆 訳)
 3戦後新宗教の戦争理解_修養団捧誠会の場合(島薗 進)

2 ジェンダー秩序の再編成
 4日本家庭経営法_戦後日本における「新生活運動」(アンドルー・ゴードン 三品裕子/山本裕子 訳)
 5戦後女性運動の地政学_「平和」と「女性」のあいだ(上野千鶴子

3 「国民文学」の境界
 6<国=家の物語>を組み替える_「戦後文学」としての在日朝鮮人文学(平田由美
 7もう一つの神話の構築_大江健三郎『M/Tと森のフシギの物語』論(西川裕子)

座談会


以下、一読 、舌足らずの 一行要約と抜粋。

1-1 国旗の扱いの変遷にはGHQのプランがはたらいた。
1-2 戦中と戦後とでは「総力戦」において連続性が見られる。
1-3 新宗教においての生き残りには戦中において軍人の地位の高いもの、戦後において語学に秀でたものといった、後ろ楯の変遷が見られる。
2-4 大企業や政府主導からの女性の組織化、労働組合からの女性の主導と組織化、女性は組織化されていた。家庭経営も、身体も、台所も。
2-5 女性運動における連続と切断と遠隔シンボルとしての「平和」と「わたし」、近代 vs 近代批判、国家フェミニズム vs 国家批判、グローバリゼーション批判の視点。
3-6 在日朝鮮人の文学による国境の問題。
3-7 国民作家、反体制文学における文化人類学とリフレイン。

以下印象にのこった 3-6「おわりに」からの抜粋。

 なぜわたしたちは物語を読むのかをめぐって思索を続ける心理学者ジェロームブルーナーのことばには、テクストをつむぎ出す者とそれを読む者が拠って立つべき足場がどのようなものであるのかが語られている(ブルーナー 1998、255頁)。
  おそらくわれわれを切り抜けさせてくれるのは、世界を再創造するようたえず促す詩や小説の執筆であり、また意味と、実在におけるーーさらに言えば、われわれが創造しうる豊かな諸実在におけるーー意味の具現とを人間が探求する、さまざまな方法を称える評論や解釈の執筆である。
 そのような可能性の物語としてテクストを読み替え、組み替えることが物語の営為における自由な精神でないとしたら、テクストを読む自由などいったいどこにあるといえようか。(P.212)


以上は歴史の描き方の話。
それでは、配偶者控除の廃止、夫たちの雇用形態の変化をうけての市場への進出、など個人化する女性のとる立場は、女性起業家、専門職、パートタイマー、プレカリアート生活保護者、などとして、国家、市場に回収されていくだけなのか、別の道があるのか。
出会いの場所、仕事を通じてか、学校か、子ども(子育、習い事、PTA、病気)を通じてか、親族か、地域か、教会か、インターネットか。
_ってカテゴリーばかりか。


そういえば地域のもめ事も解決しつつあるかも知れない。
近隣のお年寄りによれば、「そうやって捨て犬や捨て猫の世話をみんなで相談してやってきたの、50年の歴史がある」んだそうだ。
そんな所に入っていって、近代的なペットの飼いかたを(家族も巻き込むので当然そうなる)実践しようとしていた訳だ。
それにしても移動しない人々、定住者のトラブルに対する解決方法がなんと場当たり的で ルールのないものに映ったことか。
相手が自分を通そうとする時に使う差別的な言葉には正直まいった。こちらも人権から憲法まで妄想してしまった。思えば声のボリュームも大事であった。
電話相談室では「そんなにこじれては解決することはない」と言われていた。
が、休戦は何のことはない、代る代る近隣者(子どもやお年寄りをかかえた半?当事者)が申し入れに来ていたことと、ほんの少し相手の生活に引きつけて共感したことだけだった。
こんなことに7年もかかるとは!