「あなたも運動部出なんだから 精神的にきつかったら 身体を動かしてみたら?」。二十年程前に友人に言われたアドバイスである。運動部や体育会というのには一抹のためらいがあって それは昔に聞いた学生運動と体育会との関係の捻れを 多分さらに捻れて記憶したためであると思う。そのために学生の時の友人たちとはスポーツの話などしたことはない。身体にまつわることは ダンスや演劇を通じてに限られていた。あるいは体調や労働と身体など 即自的な体調の描写や資本主義と労働といった経済や社会関係から あるいはジェンダーの役割から要請される身体談議がほとんどであった。
あるいは先のダンスに詳しそうな友人から(というのも幼い時から親しんでいたので)身体の見立てをいろいろ教わって ひとつひとつなるほどと その見立てをなぞってきた。また病気になった時の親の状態 子どもの成長の順序や変化は 学んだことのない知らない身体の連続であった。
軽率な考えを披露したりすると よく「胆腰がちがう」などと身体にたとえた例を出されるが、ではどうすれば胆腰がちがってくるのか。多分、素養や教養がちがうと言いたいのだろうが、素養や教養を呼吸する身体そのものは 日々の鍛練・労働で作られるとすると 労働が あれもやって これもやって となると どんな身体になって そこでどんな「さて待てよ」と自問する契機 幅が得られるのか。
そんなこんなの意味からとりあえず離れて 市営のスポーツセンターに行ってきた。2時間足らずの自己メニューをこなしただけであったが 爽快になってしまった。ぼけた身体にメリハリがつくように思う。